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和のチカラは日本人に内在する意識のDNAを掘り起こす情報を提供します。

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私の履歴書   名倉裕一朗



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生まれは名古屋、名古屋駅前の柳橋中央卸売市場のドン真ん中の家です。
祖父が市場の開設にかかわった一人と聞いています。
母方は熱田で乳牛を育てる牧場だったそうです。
今思えば生まれた時から食に関係があったのです。
でも母は私がお腹にいるときはソース焼きそばが無性に食べたくなったそうです。
根はB級かも(笑)


父は小学校4年生の時、胃がんで亡くなりました。
母は喫茶店を始め、生計を立ててくれました。
母はバイタリティに溢れた人でいいとなればどんどん取り入れていきます。


手始めは喫茶店の入り口で洋菓子店を始めました。
横浜・元町にあったジャーマンベーカリーの特約店の契約をとりました。
ジャーマンベーカリーは当時ドイツ大使館にも納入する日本におけるドイツ菓子の草分け的存在でした。
残念なことに今はもう無くなってしまいました。


バウムクーヘンは特に有名で人気がありました。
今時のふわふわしたタイプではなく、ドッシリとした重量感と独特の風味がありました。
ホイップクリームを添えて食べると美味しい事を知りました。
昭和40年頃です。
アップルパイは温めて、バニラアイスを添えて。
いわゆるアップルパイアラモードです。
他にはレモンパイ、エンゼルケーキ、モカロール、猫の舌というチョコ、
リーフパイ、ハリネズミというケーキ・・・・・
クーベルチュールという最高級のトリフチョコも知りました。


ドイツ菓子は近頃のパティシエが作る華やかなスイーツとは異なり
彩りも地味で無骨な風合いのものが多かったです。
しかし味わいは奥深く、一つ一つの個性が光っていました。
やはり車でいうドイツ車のデザインに通ずるものがあります。


次に母が目をつけたのがベーグルでした。
雑誌クロワッサンで記事を見つけるとすぐに東京まで飛んで行き、その日のうちに経営者と卸売りの契約を結んできました。
六本木のテレ朝通りにあったフォックスベーグルというお店です。
ついでにブラウニーやデイルピクルスまで仕入れてきました。
今でこそどこのパン屋にもありますが、ベーグルもブラウニーも誰も知らない時代です。
プレーンベーグルはクリームチーズとスモークサーモンを挟んで、レーズンシナモンベーグルはバナナとホイップクリームを挟んで店でメニューとして出しました。


さすがにベーグルは時期が早すぎて名古屋ではなかなか受け入れられませんでした。
しかし私はこのサーモン&クリームチーズのベーグルサンドが大好物となりました。
ケッパーの酸味がよく合います。


こんな母親の本物志向が私の味覚感覚を養ってくれたと今でも感謝しています。


一日中働きづめの母でしたから兄弟のいない私は一人で家にいることも多かったと記憶しています。
いわゆる「鍵っ子」というやつです。
母にしてみれば「この子は一木一体で、自分が死ねば一人で生きていくしかない」
という思いがあったようです。
そこで私は基本の調理法を母から仕込まれました。


ご飯の炊き方、味噌汁の作り方、包丁の使い方、出汁の取り方、揚げ物の揚げ方、
茹で方、蒸し方、和え物、炒め物、煮物、煮込み・・・・


まさしくサバイバルとしての料理習得です。


のちに調理師免許を取って料理の道に入るきっかけとなります。
今でもお昼ご飯は事務所にいる時は自分で作ることも多いのです。
一種の気分転換にもなります。


私が高校3年生の夏休み、母が経営する飲食店の店長が突然の退職。
私が急遽メニューレシピーを覚えて引き継ぐことに。
大学受験の真っ只中です。
受験当日も先ずは仕込みを済ませてから会場に行ったこともありました。
何とか一つの大学に合格して滑り込みセーフ。


入学してからも大学と飲食店経営の二人三脚が続きます。
大学といってもゼミこそマーケティングと組織論を勉強しましたが、
(担当教授は今では世界的に著名になられた野中郁次郎先生です)
ほとんどの時間をアイセック(国際経済商学学生協会)というサークルに入って
今で言う海外と日本の企業での国際インターンシップの相互受け入れをしていました。
当時は世界60カ国以上に支部があったと思います。
学生だけで運営され、中部地区は名古屋大学・南山大学・名古屋市立大学に
支部があり、その中部地区委員長も経験させていただきました。
組織論・経営論を実践で学びました。
現在でのこのネットワークは健在で、現役の学生達とも交流が続いています。


在学中には実家の店舗とメニューのリニューアルも行いました。
店舗デザイン・メニュー作り・什器備品の購入・販促と行い、いい体験をしました。
しかし、若いが故の自身の未熟さも感じ、もっと経験を積みたいと思いました。


卒業後は藤田観光・名古屋国際ホテルグループのワシントンホテルに入社。
スタート間もないコーヒーレストラン「ワシントン」(いわゆるファミレス)の
オペレーションスタッフとして新店のオープンをして各地を回りました。
アメリカのファミリーレストランチェーンのコンサル会社の指導のもと、ロッテリアからの転職組のスーパーバイザーや国際ホテルからの配転のシェフや専門学校や大学新卒など様々なキャリアの人々が混在する中ぐちゃぐちゃでハチャメチャで毎日が刺激の連続でした。
アメリカ発の最新の運営ノウハウに圧倒もされました。


実務としてはマイナス20数度の冷凍庫とステーキを焼くチャコールブロイラー(体感温度50度)との往復など、過酷な環境で業務をこなし、時にはキッチンの床で寝ることもありました。
(でも楽しいこともいっぱいありましたが)
そのような中、毎日下着が汗で黄色く染まり、おかしいなと思っていました。
ある日の仕事帰り、車を運転していると一瞬記憶がなくなり、気がつくと高速道路の路肩で車を停めて寝ていたようです。
3時間が経っていました。
それから3日間高熱で起き上がれませんでした。


またある時はキッチンで足を滑らせ、倒れないよう手をついたのがハンバーグを焼くグリドルの鉄板の上。
自分の手をグリルする羽目になりました。
手の皮というのは一瞬でなくなるのですね。
真っ赤な筋肉がむき出しになったの思いだします。
今でもゾッとします(笑)


この仕事で学んだ事の一つは司令塔の大切さです。
キッチンの構造はフロントキッチンとプレパレーションキッチン(バックヤード)に分かれフロントキッチンの中心にはコックピットと呼ばれるスペースがあり
店のピーク時にはその日のキッチンの責任者がそこに立ちます。
通ってきたオーダー票を読み上げ、一つのテーブルの料理が同時に出るよう、焼き物担当、揚げ物担当、ガロニ(付け合わせ)担当などに指示し、タイミングを合わせます。
このコックピットの役割がうまく行かないと店自体がガタガタになります。
優秀なコックピットはフロアのサービス状況まで把握してウエイター・ウエイトレスに指示を出します。
店のすべてのオペレーションが滞りなく動いていく(特に店のピーク時に)。
ここまで来ると芸術の世界です。
美しいとも思えるくらいです。(少し大袈裟ですが)
まさしくアメリカの合理主義の賜物です。
しかしその裏には現在私がココワシ塾(客のココロをワシ掴む)のおもてなしセミナーでお話する「観察力」が最も重要なポイントでした。
ただの合理主義ではなく人間の心理に裏打ちされた日本人的要素もありました。


もう一人の重要な司令塔は店長(時によってはフロアマネージャー)。
土曜・日曜のピーク時はどんなに料理やサービスをスムーズにおこなっても
待たされるテーブル(お客様)は必ずあります。
お客様のイライラは見ればわかります。
また入り口で入れず待たされるお客様も続出です。
こんな時に店長がトレ―を持って料理を運んでいるような店は上手くいっていません。
こんな時こそ店長は店の入り口に立ち、入店されるお客様にお詫びをして、
大まかな待ち時間をお伝えし、料理が遅れているテーブルには声をかける。
うまくいっていないサービススタッフにサポートを入れる。
店全体の状況を把握して適切な指示を出すのが役割です。
踊る大捜査線のギバちゃんです(わかりますか?)
自分がプレーヤーとして動いていては店をコントロールはできません。
お客様にその時のベストの満足を感じて帰っていただくことに誇りを持つのです。
ここでもやはり「観察力」がポイントです。


チェーンオペレーションの考え方が普及してきた現代であれば
当たり前のことだよとおっしゃる方もいるかもしれません。
でもそこにはサービス業の原点があるように思えてなりません。
暇な時間帯ならまだしもピーク時にどこまでお客様の満足を引き出せるのか?
これは店舗スタッフだけの資質だけでなく、仕入れやメニュー開発、店舗デザイン、様々な基準作り、スタッフのモチベーションを維持するための教育・研修など
様々な仕組みが連動してこそ達成されるものです。
私は現在「和の饗おもてなし論」「ココワシ塾」として「私はあなたの事をいつも気に掛けています」というキーメッセージとともに人材研修の育成にも力を入れています。


「ワシントン」を退職後、実家の飲食店を営業しながら知人の紹介でヨーロッパの輸入アクセサリーの小売・卸売を始めました。
また椿オイルをベースにしたスキンケア製品の販売も開始。
この商品は今でも続いています。http://bihadanomoto.com/index.php

 
飲食店の一角とビルの地下スペースにショップをつくり販売しました。
この時、「お客様が何を求めているのか?」を感じ取る機会を多く体験しました。
お客様の気持ちを感じ、くみ取り、商品を勧める。
本当に満足していただいた時の喜び。
接客業の醍醐味を味わった時期です。
ここでもやはり「観察力」が鍛えられました。


また卸拡販のためブティックや美容室を廻って営業もしました。
飛び込み営業の大変さや面白さも知りました。
また化粧品の販売員育成も手掛け、教育の重要性も知りました。
26・7歳の頃でしょうか?
しばらく飲食からは遠ざかっていきました。


そしてこの頃からフィットネスとの関わりが始まります。
飲食店のお客様の中に東京女子体育大学の体操選手だった方がみえ、
アメリカ生まれの「エアロビクス」という体操があると雑誌を見せられました。
今の人は知らないと思いますがジェーン・フォンダという女優がビデオをつくり
ロサンゼルスにスタジオを何軒もオープンさせました。
雑誌の中にはレオタード姿の女性たちが鏡張りのスタジオで汗を流している写真が何枚も掲載されていました。
スタジオの横にはカフェ(喫茶店ではない)とレオタードショップが併設されていました。
今まで見たことのない眩しくておしゃれな空間です。
この施設は今でこそなくなりましたが原宿セントラルアパートにできたスタジオNAFA(ナファ)です。
日本のエアロビクス発信地と言っていい場所です。
他にも当時、瀬田のスポーツコネクション、新宿レマン、ワークアウトスタジオ、
コンディショニングセンター代々木、少し遅れて六本木バイオと・・・。
綺羅星のようにスタジオができていきました。
六本木バイオなんかはオリジナルウェアがヒットとなり、デパートに専門コーナーができるほどの盛況ぶりでした。
ここでもアメリカ発の最新文化に圧倒されました。


私は原宿NAFAができた翌年の春、飲食店の地下スペースを改装してスタジオOPS(オーピーエス)を名古屋でスタートさせます。
チラシ配布のみで一カ月で200名近くの会員が集まりました。
まだスポーツクラブなどない時代でした。
文化センターから講師の派遣依頼が多く舞い込むようになりました。
インストラクターが足らなくなり養成コースを始めます。
ほとんど情報がなく手探りの状態です。
養成コースではその後、約600名のインストラクターを輩出してきました。
インストラクターが初めてスポーツクラブなどで仕事をすることを「デビュー」といいます。
しかし新人インストラクターを待っているものはスポーツクラブの常連会員の洗礼です。
時にはうまく対応できずに仕事自体をやめてしまうインストラクターもいました。
そんな時は私は必ず授ける「おまじない」があります。
キーパーソンは「新入会員」とやはり「観察力」です。
詳しくはセミナーでお話しますね(笑)


そんな頃、東京に日本エアロビックフィットネス協会(現在は公益法人日本フィットネス協会)が設立されました。
早速、会員になりエアロビクスを学ばせていただきました。
その後、代議員、理事もさせていただきました。
当時の印象は華やかさ、派手さが先行しておりましたが、科学に基づいた運動理論に基づいた素晴らしいエクササイズであることがわかりました。
そして新しいスタジオを名古屋の栄地区にオープンさせます。
インストラクターはアメリカ・ロサンゼルスへ飛び、最新のエクササイズと音楽を仕入れてきます。
情報を得るのにほんとうに苦労した時代ですがワクワクした時代でもありました。
インストラクターはLPレコード(わかりますか?)を小脇に抱えてスタジオに入り、今日の気分でプレーヤーの針をレコード盤の上に落とす。
CDなんてない、ましてやipodなんてまったく影も形もないアナログな時代です。
すべてに時間と労力をかけ、自分の手で探し出しつかみ取る喜び、そんな刺激にみちた業界でした。
外人インストラクターを招聘しワークショップも開催しました。


そうこうしている内に同じ栄地区にトレーニングジムとスタジオを
備えた次の施設をつくることになります。
しかしこのことが苦労の始まりとなります。


スポーツクラブは徐々に数が増え定着してきました。
私が最初に衝撃を受けたのは青山にできたエグザスです。
渋谷のティップネスや青山のノーチラスクラブも面白かったです。
単体スタジオからジム併設、プール併設へと広がってきました。
都心型から郊外型へ。
そんな時、名古屋の都心の古いビルの2,3階にジムとスタジオをつくる話がありました。
総額6000万くらいの投資でした。
今から思えば、立地・施設キャパ・コンセプトの間違い、資金力不足、そして何よりも私自身の経営者としての能力不足と思いあがりがあったと思います。
案の定、採算ラインにはなかなか届かず、最終的には撤退することとなりました。
この失敗から多くのことを学びました。

私は600名以上のエアロビクスインストラクターの育成事業の過程で多くの人材を見てきました。


例えば
Aさんは運動能力に優れ、指導教官の要求も難なくこなし、首席で卒業します。
誰よりも早くレッスンデビューし、まさしく希望の星です。
一方Bさんは、運動神経やリズム感も悪く、教えたことも要領が悪くなかなか覚わりません。
卒業試験も不合格で追試を繰り返し、なんとか卒業します。
こんな二人の5年後はどのようになっているでしょう?
Aさんはインストラクターはやめて、全く違う職業につき、その仕事もそこそこにこなしていきます。
Bさんは表情も見違えるようにかわりインストラクターとして多くのレッスンをかかえ、お客様からも絶大なる信頼を得ています。


この違いは何なんでしょうか?
私の想像ですが、Bさんは自分自身が技量不足のため苦労をしてきた経験から
体が思うように動かないお客様の気持ちが手に取るように解り、辛抱強く指導をして、お客様ができるまで付き合います。
お客様は動きが少しづつ良くなり、自分の体も変わってきたという喜びで満たされます。
当然、Bさんもその喜びを共有し、この仕事の素晴らしさを確信します。
一方Aさんは自分が体を器用に動かせますので、体の動かせないお客様の気持ちがなかなか伝わりません。
結果、辛抱強く接することもできず、お客様に変化も起こせません。
Bさんのような喜びを共有することできません。
ただ、Aさんは身体能力は高く、センスもいいので憧れるお客様は多いかもしれません。
カリスマインストラクターとして取り巻きに囲まれる喜びはあるかもしれません。
でも職業として考えた時、どちらの喜びが価値があるでしょうか?


ここでのポイントは先ずは自分の感情の認知能力です。
ここも「和の饗もてなし論」「ココワシ塾」の重要ポイントです。
次に相手の感情を認知して、どのように対応するかの能力です。
自分の資質に関係なくこの能力を鍛えることは可能です。
日本人は「情」を大切にする民族です。
情感に訴えるドラマなどがヒットします。

次は食文化のお話です。
先ほど書きましたように小さい頃から台所に立つことが当たり前で、インスタントラーメンに一手間かけて美味しくなると妙に嬉しかったり、大学生の時には実家の飲食店のメニュー開発や店舗改装の図面を引いたりしていました。
しかし、フィットネスのビジネスを始めてからは飲食からは暫く遠ざかっていました。
そんなころある工業デザイナーの友人から誘われたのです。
当時彼はイタリアでも仕事をしていたようで、イタリアでは今、スローフードという運動が盛んであるというのです。
2000年前後の話だったと思います。
話が決まると早く、特定非営利(いわゆるNPO)法人で日本スローフード協会を
内閣府の認証で立ち上げてしまいました。
私は専務理事・事務局長に就任。
(現在はNPO法人日本ジャパンフード協会)
本業の合間を縫ってのボランティア活動です。
本来ボランティアというのは馴染めない性格なのですが
気の会う友人たちとワイワイやっているのが楽しくてしょうがないという乗りでした。
その乗りはどんどんエスカレートして本場イタリアや南フランスへ行ったりしました。
イタリアでは自動車会社フイアット発祥のトリノで2年に一度開催されるスローフードの食の祭典「サローネ・デル・グースト」を視察したり、南フランスでは知人のワイナリーを訪問しました。


2005年の愛知万博の際は笹島のサテライト会場にてフードワークショップ
「食の塾」を展開したり、愛知県と「あいちの伝統野菜」の普及活動を
コラボしたりと、それ以外にも様々な企画を立ち上げ、運営していきました。
現在、私が主催する「レストラン塾」 http://resjuku.jp/index.php もスローフード活動で得た体験がベースになっています。


スローフードをあまりご存じない方のためにご説明しますと
スローフードは発祥の地はブラという北イタリアの人口37000人ほどの
小さな農村。
1986年、ローマのスペイン広場にマクドナルドの第1号店が開店したことから、それは始まりました。
ブラの住民であるジャーナリストのカルロ・ペトリーニ氏は、仲間たちと
ディナーのテーブルを囲みながらファストフードの脅威について侃々諤々の議論をしていました。
甘味料や化学調味料のたっぷり入ったケチャップをたっぷりかけたメイド・イン・アメリカのやわらかなバーガーはイタリアの食を変えてしまう。
伝統の味を子供たちに伝えなくていいのか?
そこで誰からともなく発せられたのが「スローフード」という言葉でした。
・・・イタリア語ではなく英語標記と言うのがなかなか抜け目ないですが(笑)・・・


そしてスローフードには3つの柱があります。
1.消えゆく恐れのある伝統的な食材や料理、質の良い食品、ワイン(酒)を守る。
2.質の良い素材を提供する小生産者を守る。
3.子供たちを含め、消費者に味の教育を進める。


最近の情報ではマクドナルドイタリーからイタリアの上質の素材を使ったバーガーが発売され、農業大臣がPRに一役買っているようです。
笑えない話ですね!


私の中ではこのような経験の中から
アメリカナイズされた合理的な考え方(チェーンレストランやエアロビクスやフィットネス)からスローフードに始まるヨーロッパの昔からの文化を大切にする思想に触れ、日本独自の素晴らしい文化(旬の考え方・地産地消・身土不二)に目覚めるようになってきました。
日本発祥のマクロビオテックも研究しました。


そんな頃、フィットネスの世界でも大きな出会いがありました。
ある方の紹介で名古屋に本拠を置く日本舞踊 西川流三世家元 西川右近氏にお会いしました。
一本のDVDを見せられました。
白塗りの豪華な和服を着た女性がかがり火が焚かれた石舞台で二胡の音色に合わせて踊っている映像でした。
フィギアの浅田真央さんやハンマー投げの室伏広治氏などの指導でも著名な中京大学体育学部の湯浅景元教授と共同開発した「和のフィットネスNOSSノス之守」だったのです。


正直この映像を初めて見た私はドン引きでした(笑)
しかし科学的に解析された湯浅教授のお話を聞くうちにひょっとすると言う思いがこみ上げてきました。
実は日本人には日本人の、欧米にはない独特の生活様式に裏打ちされた身体の動き=身の熟(こな)しがあったのです。
事務局と普及講習会の企画・運営をお引き受けしました。
私のフィットネス業界のありとあらゆる人脈に繋いでいきました。
結果2013年で650名を超えるNOSS認定インストラクターを養成しました。
和なんてダサいとどこかで思っていました。
しかしそれは大きな間違いでした。


そしてその思いは「和のチカラ」という形で新しいコンテンツを生み出しました。
ぜひコチラからご覧ください。
http://wanochikara.jp/index.php?wanochikarajuku 



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